原作 第11話 功名が辻 2006年 NHK 大河ドラマ
カテゴリ : 功名が辻 原作者
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作者・司馬遼太郎を知る

 

司馬 遼太郎 (しば りょうたろう)

1923年8月7日生まれ 1996年2月12日他界

本名、福田 定一 (ふくだ ていいち)。
大阪市生まれの小説家である。大阪外国語学校蒙古語学科卒。ペンネームは、歴史家「司馬遷」に遼(はるか)に及ばずと言う謙遜の意味を込めている。

幼少時代を母の実家のある奈良県北葛城郡當麻町(現在の葛城市)で過ごす。産経新聞社在職中、「梟の城」で直木賞を受賞。以後「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観に基づいて、それまでの歴史小説に新風を送る作品を数多く執筆した。日本の大衆文学の巨匠、中心とされる作家。 作品は戦国・幕末・明治を扱ったものが多く、「国盗り物語」「竜馬がゆく」「坂の上の雲」などが有名作品である。また、「街道をゆく」などのエッセイなどで、活発な文明批評を行なった。

司馬遼太郎の学生時代

大阪市浪速区西神田に、父・福田是定、母・直枝の次男として生れる。兄は2歳で早世、姉、妹が一人ずついる。乳児脚気のために3歳まで奈良県北葛城郡當麻町に里子に出された。

1930年、大阪市難波塩草小学校に入学したが、学校嫌いの悪童であった。母の実家の周りには古墳が多く、土器のかけらや石鏃などを拾い集めた。1936年、私立上宮中学校に進学。井伏鱒二の「岩田君のクロ」に感銘を受け、三年生から御蔵跡町の図書館に通うようになり、大学卒業まで乱読するようになる。

1940年、旧制大阪高等学校、翌年には旧制弘前高等学校を受験するも不合格で、4月に大阪外国語学校蒙古語学科に入る。ロシア文学や、史記の列伝を愛読。二年上に庄野潤三(中国語部)、一年上に陳舜臣(印度語部)、同期に赤尾兜人(英語部)らの「文学グループ」がいたが、その輪には入れなかった。

1943年に、学徒出陣により仮卒業。兵庫県加古川の戦車第十九連隊に入隊した。翌年4月、満州四平の陸軍戦車学校に入り、9月に大学を、12月に陸軍戦車学校を卒業する。見習士官として牡丹江の戦車第一連隊に配属される。さらに翌年、本土決戦のため栃木県佐野市に入り、ここで終戦を迎えた。その後すぐに図書館通いを始める。

司馬遼太郎の記者時代

戦地からの復員後、生野区猪飼野東八丁目にあった新世界新聞社に入社した。1946年、新日本新聞京都本社に入社。このころから30を過ぎたら小説を書こうと考えるようになる。大学、宗教記事を書いたが、二年後に倒産、産経新聞社京都支局に入る。翌年大阪本社に異動。1950年には、金閣寺放火事件の記事を書いた。その後文化部長、出版局次長を勤めた。

1955年、「名言随筆・サラリーマン」(六月社)を発表。この作品は本名で発表したが、このほかにも数作本名で発表した本があるといわれる。そして、当時親しくなっていた成田有恒(寺内大吉)に勧められ、小説を書くようになる。

1956年5月、「ペルシャの幻術師」が第8回講談倶楽部賞を受賞(「司馬遼太郎」の名で投稿)。また、寺内とともに「近代説話」を創刊した。「近代説話」「面白倶楽部」「小説倶楽部」に作品を発表し続け、1958年7月、「司馬遼太郎」としての初めての作品「白い歓喜天」が出版される。また、「梟のいる都城」(のち「梟の城」に改題)の連載を開始した。

1959年1月、同じく産経新聞記者の松見みどりさんと結婚。12月に大阪市西区西長堀のアパートに転居する。また、「大坂侍」「梟の城」を発表。翌1960年、「梟の城」で第42回直木賞を受賞。1961年に産経新聞社を退職し、作家生活に入る。

司馬遼太郎の小説家時代

初期は直木賞を受賞した「梟の城」や、「大坂侍」「風の武士」「風神の門」など、時代・伝奇小説が多かった(推理小説も書いた)。しかし、1962年より「竜馬がゆく」「燃えよ剣」、1963年より「国盗り物語」を連載し、歴史小説家として出発、旺盛な活動を始めた。1964年、布施市下小阪に転居。「猥雑な土地でなければ住む気がしない」と話していた。

1966年、菊池寛賞。その後も「国盗り物語」に続く「新史太閤記」「関ヶ原」「城塞」などの長編小説を上梓する。1971年から、紀行随筆「街道をゆく」の連載も始めた。1972年には明治時代を扱った「坂の上の雲」の連載が終了。また、幕末を扱った「世に棲む日日」で吉川英治文学賞。「国民的作家」の名が定着し始めるようになる。 「翔ぶが如く」「胡蝶の夢」「菜の花の沖」「箱根の坂」などの後、「韃靼疾風録」を最後に小説から遠ざかる。

エッセイ「風塵抄」「この国のかたち」「街道をゆく」の連載に絞り、日本とは、日本人とはなにかを深く問うた文明批評を行なった。1991年には文化功労者に選ばれ、1993年に文化勲章を受章した。 1996年2月12日午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため死去。享年72。死去した国立大阪病院は、奇しくも「花神」で書いた大村益次郎が死去した場所であった。同日は「菜の花忌」と呼ばれている。3月10日に「司馬遼太郎さんを送る会」が開かれ、3000人が参列した。

翌年には司馬遼太郎記念財団ができ、司馬遼太郎賞が創設された。2001年に司馬遼太郎記念館が開館。協力は朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、講談社、新潮社、中央公論社、文藝春秋、NHKの9社で、多くの会社が関係する事業は珍しい。

司馬遼太郎の受賞暦

1956年 「ペルシャの幻術師」で第8回講談倶楽部賞
1960年 「梟の城」で第42回直木賞
1966年 「国盗り物語」「竜馬がゆく」で第14回菊池寛賞
1967年 大阪芸術賞、「殉死」で毎日芸術賞
1968年 「歴史を紀行する」で第30回文藝春秋読者賞
1970年 「世に棲む日日」で第6回吉川英治文学賞
1975年 第32回日本芸術院賞恩賜賞文芸部門
1981年 「ひとびとの跫音」で第33回読売文学賞小説賞
1982年 朝日賞 1984年 「韃靼疾風録」で第15回大佛次郎賞
1985年 放送文化賞、「街道をゆく 南蛮のみち」で第16回日本文学大賞学芸部門
1986年 「ロシアについて」で第38回読売文学賞随筆紀行賞
1988年 明治村賞
1991年 文化功労者
1993年 文化勲章
1996年 東大阪市名誉市民、第1回井原西鶴賞

司馬遼太郎の主な作品

歴史小説 平安・室町時代

義経 (1968年、文藝春秋)
妖怪 (1969年、講談社)
空海の風景 (1975年、中央公論社)

歴史小説 戦国時代

戦雲の夢 (1961年、講談社)
尻啖え孫市 (1964年、講談社)
国盗り物語 (1965〜66年、新潮社)
功名が辻 (1965年、文藝春秋新社)
城をとる話 (1965年、光文社)
関ヶ原 (1966年、新潮社)
新史太閤記 (1968年、新潮社)
夏草の賦 (1968年、文藝春秋)
城塞 (1971〜72年、新潮社)
覇王の家 (1973年、新潮社)
播磨灘物語 (1975年、講談社)
箱根の坂 (1984年、講談社)

歴史小説 江戸時代 

北斗の人 (1966年、講談社)
大盗禅師 (1969年、文藝春秋)
菜の花の沖 (1982年、文藝春秋)
宮本武蔵 (1999年、朝日文庫)

歴史小説 幕末

竜馬がゆく (1963〜66年、文藝春秋新社)
燃えよ剣 (文藝春秋新社)
俄 浪華遊侠伝 (1966年、講談社)
十一番目の志士 (1967年、文藝春秋)
最後の将軍 徳川慶喜 (1967年、文藝春秋)
峠 (1968年、新潮社)
世に棲む日日 (1971年、文藝春秋)
歳月 (1969年、講談社)
花神 (1972年、新潮社)
胡蝶の夢 (1979年、新潮社)

歴史小説 明治時代

殉死 (1967年、文藝春秋)
坂の上の雲 (1969〜72年、文藝春秋)
翔ぶが如く (1975〜76年、文藝春秋)
ひとびとの跫音 (1981年、中央公論社)

歴史小説 中国

項羽と劉邦 (1980年、新潮社)
韃靼疾風録 (1987年、中央公論社)

時代小説

梟の城 (1959年、講談社)
上方武士道 (1960年、中央公論社)
風の武士 (1961年、講談社)
風神の門 (1962年、新潮社)

エッセイ

街道をゆく
この国のかたち
21世紀に生きる君たちへ

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